1980年代:北海道での子供時代とバブル経済
北海道の小さな町で育ち、経済的には決して豊かではなかったが、私の子供時代の思い出は、自然の中で思い切り遊んだり、音楽を楽しんだり、歌を歌ったり、輝かしいシーンにあふれている。私の父は頻繁に仕事を変え、失業していた時期も長く、子供を4人抱えての生活は相当大変であったと思う。それでも、私の母は困窮にあっても困難を困難と認識せず謳歌することができるという稀な才能を持っており、おかげで私と兄弟たちは伸び伸びと楽しい子供時代を過ごすことができた。
1980年代の後半は、私の家族が経済的に潤っていた唯一の時期であった。当時私の父は北海道で比較的名の知れた不動産会社に就職し、ようやく安定した収入を得ることができていた。私たちは、本州に旅行したり、外国製のおもちゃを買ったり、地元の高級なレストランでビーフステーキを食べたり、ささやかな贅沢を楽しむことができた。その上、私の両親はローンを組んで新築の家を買った。しかし、振り返ってみれば、当時は日本中を狂乱させたバブル経済の真っただ中にあったのだ。
1990年代:日本の金融危機と経済の停滞
私の家族の良い時期は長くは続かなかった。日本の資産価格は1989年をピークに急落し、1991年にバブル経済は崩壊したためだ。1992年に私の父は勤務していた不動産会社を退職し、自分で事業を興そうと小さな不動産会社を設立した。私の父はバブルの頃の幻想から抜け出すことができず、資産価格はまたすぐに上向き経済も良くなるだろうと楽観的かつ不可能な予測をしていたのだろう。
バブル経済の崩壊とそれに伴う経済的停滞及び不況により、私の家族は大打撃を受けた。父が想定していたバブル経済の頃のビジネスモデルはとっくに崩壊しており、父の商売の才覚の無さも加わり、事業は当然ながらうまく行かず、多額の負債を抱えるに至った。その上、私の両親はバブル崩壊直前の政策金利が人為的に引き上げられ住宅ローン金利が相当高かった時期にローンを組んで家を買ったため、住宅ローンももちろん支払いが困難になった。私の祖母などが僅かな貯金から援助していたが、それも長くは続かない。経済的困窮のなかで両親は不仲になり離婚した。さらには、1997年の北海道拓殖銀行の倒産に伴う北海道経済の大不況も重なった。私の家族の借金額は膨大に膨らみ、父の事業は1999年に事実上の倒産に追い込まれた。
日本の経済政策と私
私は当時理系を専攻する大学生であったが、血気盛んな若者として憤っていた。日本は世界で第二の経済大国(当時)というが、なぜここまで経済が停滞するのか。そもそも経済とは何か。なぜ日銀や大蔵省(現在の財務省)の「エリート」と呼ばれる人達はバブル経済の最中及びその後の経済政策の舵取りを誤ったのか。テレビや論壇で「経済学の専門家」と呼ばれる人達が盛んに経済政策について議論しているが、各々の専門家の議論は反駁し合い議論が全くかみ合わないのは何故だろうか。私は理系専攻で経済学を体系的に勉強したことは無く、そういった質問への明確な答えを見出すことは出来なかった。
では、どうすれば良いか。向こう見ずな若者であった私は、あるアイディアを思いついた。それは、経済学を勉強し国家公務員Ⅰ種試験(いわゆるキャリア官僚への登竜門)を突破し、大蔵省(当時)に入り、自身が国家の経済政策の一翼を担うというものであった。当時の私の友人や先輩・教師達はこの考えを一笑に付し、「そんなのは、誰もが一度は夢見て結局は諦めるものなのだ。お前に出来るはずがない。とにかく地に足つけて、地元でもどこでも良いから就職しろ。」と堅実なアドバイスをくれたものだ。それでも、反対されるほどに私の気持ちは燃え上がり、大学卒業後も定職に就かず東京で経済学と公務員試験の勉強をすることにした。
一回目の公務員試験受験では不合格であったが、その夏に一橋大学大学院経済学研究科の入試にパスしたので、引き続き東京に残り勉強を続けることにした。アルバイトしながら大学院の学費と都心での生活費を稼ぎつつ勉強をするのは非常に困難で、食べるものは時々大量に作り置きするカレーと白米のみ、着るものを買うお金もなく赤いセーター1枚だけで一冬を過ごしたことがあった。日常着る服が一着しかないときに赤いセーターを選択するのは馬鹿げているが、今となっては良い思い出で、その後人生で辛い時期があっても、その赤いセーターのことを考えると、どんな困難も乗り越えられる気がした。
経済学が教えてくれたこと
貧しくはあっても本を読んだり勉強をする時間はあり、最新の経済学を勉強するとともに図書館で経済学や社会科学の古典などを一心に読んでいたものその時期であった。経済学を深く学び、自分なりに当時の経済状況や経済政策を色々思索するにつれて、経済学の奥深さを知り、その魅力の虜になった。
同時に、私の両親が経済学の基本的な知識や情報があったら彼らの人生はどんなに違ったものであっただろうと思わずにいられなかった。彼らが知っているべき経済学及び経済の仕組みとは、次のようなものだ。実体経済には不況と好況の循環があり、歴史的にみると、特にバブルのような狂乱的な資産価格上昇を伴う好況の後には大きな不況が伴うものであるので、バブル経済の頃のビジネスモデルは続くはずがない。好況の時にこそ贅沢するのではなく将来を見据えて貯蓄に励むべきである。金利が高く経済見通しが不透明な時には多額のローンを組んで住宅を買うのは誤っている。私の両親がこういった知識があって人生の重要な選択をしていれば、ああいった初歩的かつ致命的な判断ミスをすることも無かっただろう。
同じことは経済政策にも言えることだ。1929年の大恐慌や世界的金融危機を経て、世界の経済学者や政策当事者達は、あるべき経済および金融政策の在り方を実践するとともに議論し方法論を確立してきたが、現在の主流の見解は、銀行等金融機関の健全性を維持するために監督する、大きな銀行の破綻はあまりに影響が大きいので破綻させないあるいは破綻の影響を最小限にとどめることに留意するべきである、というものである。ところが、1980-90年代前半までの日本においてそういった「正しい経済政策」が実施されていなかったことは衆目の一致するところである。例えば、北海道拓殖銀行は破綻に至るまでその乱脈経営が明るみになっていたが、1980年代から90年代にかけての日本の金融行政は、護送船団方式と言われ極端に保護されていて銀行の自助能力を著しく低めていた。北海道拓殖銀行は都市銀行として唯一倒産に追い込まれた銀行となったが、破綻の影響を最小限に抑えるためのインフラがまだ充分に整備されていない状況であった。有力政治家や官僚を含め当時の経済政策当事者達は、北海道最大にして唯一の都市銀行の破綻が北海道経済に及ぼす潜在的影響が著しく過小評価していたか、あるいは東京のエリートにとって北海道は重要ではなかったのか、いずれにせよ、当時のマクロ経済政策および金融行政が正しく行われていれば違った結果になっていたであろうし、多くの人を救ったのではないかと思う。
2000-2010年代:財務省及びIMFでのキャリア
さて、私はというと、2回目の挑戦で何とか公務員Ⅰ種試験に合格し財務省から内定も得ることができ、翌年財務省国際局でのキャリアをスタートした。財務省では、私は当初は主計局など国内経済政策を担当する部署を希望していたが、人事担当者に女性はそういった激務の部署で働くのはなかなか難しいと言われ、私は国際局に配属となった。私はそれが悔しくて「男性の3倍働こう」と決めて猛烈に働いた結果、徐々に認められるようになり、1990年代のアジア危機の後の経済金融システム構築のためのスキーム作りを担ったり、日本の金融法整備に携わったり、アジア経済サーベイランスを実施するために海外出張に行ったり、若い係員ながら責任のある仕事を任せられることも多かった。その後、米国ジョージタウン大学大学院に留学して経済学を学んだりもした。また、米国ワシントンDCの国際通貨基金(IMF)にアドバイザー(理事補)としてのポストを得てワシントンに着任し、2008年のリーマン危機後の国際通貨金融システムの構築を喧々諤々議論したり、IMFエコノミストとしてアジア、アフリカ、中東などの様々な国に赴いて経済政策のアドバイスをしたり、引き続き経済学を勉強しつつ経済政策を実践していた。
結婚と出産
このように30代半ばまで仕事と勉強に明け暮れ、結婚して家族を持つことなどは考えたこともなかったが、そんな私にも運命の出会いがあり、同じくIMFエコノミストのエジプト系アメリカ人の男性と2012年に結婚した。2014年には第一子の息子が誕生したが、子供の誕生が私の人生を大きく変えるものだとは思ってもいなかった。
※次回「My Life Story – Part 2」では、私が直面した子育てにおけるチャレンジ、及び、いかにして突破口を見出したかを書きます。